解説
宝達山では江戸時代に金が掘られていました。「越登賀三州誌」によれば、金山としての開山は天正12(1584)年とされ、最盛期には150人以上が従事し、大判にして3500枚分、約1.3トンを産出しました。当初は親方が職人を雇って採掘する「親方請負制」で運営され、金の産出量が減少してきた元和3(1617)年には、職人の流出を食い止めるため加賀藩直営になりました。12カ所の坑道が崩壊する落盤事故が起きた後、次第に衰微し、やがて閉鎖されました。職人たちは金山で培った技術を生かし、金沢の辰巳用水など藩の土木工事に従事し、「宝達者(ほうだつもの)」と呼ばれました。全部で何本の坑道があったかは明らかになっていませんが、東北側の斜面に9カ所の廃坑口が確認され、中腹の中尾平鉱跡には開口部が残っています。慶長年間の金鉱採掘に関する運上金を記録した「宝達金山古文書」は、町指定有形文化財となっています。