解説
能登国珠洲郡にあった能登最大の荘園で、現在の珠洲市西部から能登町の旧内浦町地区全体まで広がっていました。若山荘は、平安時代末期の康治2(1143)年、能登守・源俊兼の子・季兼(すえかね)が領家職を確保しながら土地の保護を求め、皇太后宮藤原聖子(皇嘉門院〈こうかもんいん〉)を本家と仰いで寄進し、成立したとされています。承久3(1221)年の「能登国田数目録」には、公田数500町(1町は約1ヘクタール)との記録があり、国内の荘園・国領の中でも最大規模を誇っていたと考えられています。本家職は皇嘉門院から九条家、領家職は日野家へと伝えられ、地元の武士である打波家や本庄家、松波家が荘園の経営を担いました。当時、園内で盛んに焼かれた珠洲焼は、富山湾を経由して日本海沿岸の東北地方まで広く流通していました。