解説
マンポとは農業用の地下水路のことで、新田開発をする上で重要な役割を果たしました。七尾市の旧田鶴浜町舟尾村で垣吉町に残る舟尾川マンポは、安政年間(1854~1859)、舟尾邑の肝煎(きもいり)を務めた左近四郎が新田開発の折、築造した全長700mのかんがい水路のうち、高ノ山の下をくぐる地下水路です。輪島市鵠巣地区の春日用水は、百文山の裾野を、ほぼ90mの等高線に沿って延びており、勾配200分の1以下と思われる緩やかな流れである。湯川町のマンポは明治30(1897)年の築造で、宝達村(現宝達志水町)の技術者が工事を行ったことから、地区ではマンポのことを「ホウダツ」と呼んでいます。七尾市の旧深見村にも、全長約300mにも及ぶ巨大な地下水路「深見村マンポ」があるが、このマンポは、山にゲタ舟と呼ばれる舟をつきあて、両側から土砂を舟の上に落として、埋め立て地に運ぶことによりつくられたといわれている。これらから、築造当時、能登には、高度な土木技術、それを施工する土木指導者もしくは土木技術集団があったと推察できます。