解説
喜多家は源氏の流れをくむ新田義貞につながる家系で、子孫が能登守護の畠山氏に仕え、江戸時代初期、北川尻に居を構え、喜多姓に改称しました。加賀藩の農村支配の役職である十村役(とむらやく)を文政2(1819)年から務め、最大203カ村を治めて十村役の筆頭まで上り詰めました。19世紀初期の建築とされる住居は現在、主屋(おもや)、表門、道具倉、味噌(みそ)倉が国重要文化財に指定されています。切妻(きりづま)造り妻入り、桟瓦葺(さんがわらぶ)きの主屋は、外から見えないよう敷地を1.5メートルほど掘り下げたすり鉢状の底に建てられています。農民の訴えを聞く溜(たま)りの間や藩主専用の御座(ぎょざ)の間など16の部屋があります。藩主を守る武士が身を潜める3畳の武者隠しの間があり、外から槍(やり)を突き出されても部屋に届かないよう、廊下は1間半(約2.7メートル)の幅をとってあります。嘉永6(1853)年、加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)が能登巡見に訪れた際に本陣として使われました。