解説
平時忠は平家全盛期を支えた一人で、姉時子が平清盛の妻、妹滋子が後白河天皇に嫁ぎ、自身も大納言に昇進しました。「平家にあらずんば人にあらず」の言葉を残した人としても有名で、栄華を誇りましたが、源平合戦の壇ノ浦の戦いに敗れた後、能登に流罪となり、文治5(1189)年、現在の珠洲市大谷町で一生を終えました。珠洲市の内浦と外浦を結ぶ大谷峠の谷間に、時忠とその一族とされる8基の五輪塔が建っています。そのうち6基がほぼ原形を残し、大きさは72~98センチ。残り2基は五輪塔の火輪や水輪が積み重ねられています。墳のある地は、時忠が金色に輝く八咫烏(やたがらす)に導かれて住まいを構えた地と伝えられ、時忠の末裔(まつえい)とされる則貞家(のりさだけ)が墓所を守っています。近くには、一族の行く末を思い時忠が歌った「白波の 打ち驚かす 岩の上に 寝らえて松の 幾世経ぬらん」の碑が残っています。ちなみに、歌碑の書は昭和36(1961)年に珠洲市を訪れた俳人・山口誓子(せいし)が揮毫(きごう)したものです。